前回は、昔の日本の通訳を特集しました↓
その内容をまとめると下記の通り。
- 日本の通訳は公務員だった
- 日本の通訳は世襲制だった
- 英語の先生はオランダ人だった
特に気になるのが3番目。
当時、鎖国だった日本には、英語のネイティブスピーカーがいませんでした。
よって、英語の勉強をする際にはオランダ人から英語を学んでいました。
当然のことながら、それは正確な英語ではありません。
かなり非効率な英語の勉強法に悩む通訳たち。
そんな状況を打破したのは、意外な人物でした。
それはラナルド・マクドナルドという当時24歳だった青年。
今回は、彼が如何に日本の英語、そして歴史に貢献したのかをお伝えしていきます。
ラナルド・マクドナルドとは?
日本の英語に革命を与えた人物ラナルド・マクドナルド。
イギリス領時代のカナダに生まれた彼は、意外なルートで日本に来ました。
それは密入国。
ラナルド・マクドナルドは白人の父と、ネイティブアメリカンの母との間に生まれました。
その容姿から、自分の祖先は遠い日本から来たと考えたラナルド・マクドナルドは、日本に強い憧れを持つようになりました。
どうしても日本に行きたいラナルド・マクドナルド。
しかし、当時の世界は今のように交通機関が発達していません。
ましてや日本は鎖国状態。
そこでラナルド・マクドナルドは捕鯨船に乗り込むことに。
捕鯨船が日本に近づくと船から降ろしてもらい、一人で北海道北部にある利尻島に上陸。
しかし、すぐに見つかり牢屋行き。
その後、密入国者として長崎の牢屋へと送られることになったのです。
密入国者が英語の先生
密入国者として長崎へ送られたラナルド・マクドナルド。
その時の日本といえば、フェートン号事件以来、英語を学ぶ必要性に迫られていました。
そんな日本にとって、英語をペラペラ話すラナルド・マクドナルドはこれ以上ない人物。
密入国者として日本にやって来たマクドナルドですが、英語の必要性に迫られていた幕府は、通訳者たちにマクドナルドと接触することを許可。
その後、通訳者たちは、毎日のようにマクドナルドの元を訪ねて英語の勉強に勤しみます。
ラナルド・マクドナルドの貢献
以前はオランダ人から英語を学んでいた日本人。
本物の英語に触れて、彼らは大きな衝撃を受けます。
例えば、日本人はオランダ人の先生から「髪」は英語で「ヘール」と学んでいました。
その他、「名前」は「ナーメ」と学んでいました。
それが実際は「ヘアー」「ネーム」だった訳ですから、驚きの連続だったことでしょう。
ラナルド・マクドナルドから英語を学んだ通訳の中には、森山栄之助もいました。
森山栄之助といえば、日本に開国を迫ったペリーとの交渉で通訳を務めた人物。
作家・翻訳家のフレデリック・ショットは、自身の研究書の中で、もしも森山栄之助がマクドナルドから正確な英語を学んでいなかったら、日本は独立を守ることが難しかっただろうと書いています。
つまり、密入国者として日本にやって来たマクドナルドですが、生きた英語を通訳に教え、更には日本の未来を変えた可能性があるのです。
ここからはマクドナルドのその後の話。
マクドナルドが日本にいた期間は10ヶ月。
その後、長崎に入港していたアメリカ船プレブル号に引き取られ、アメリカへ。
マクドナルドは70歳(1894年没)まで生きたそうです。
日本では独房で監禁状態だったものの、マクドナルド自身が日本の文化に興味を持ち好意的だったため、日本人の彼に対する扱いは非常に良かったとのこと。
生涯を通して、マクドナルドは日本に対して良い印象を持っていたそうです。
因みに、その後のマクドナルド談によると、日本人は文法は得意だが、LとRの発音が苦手と語っていたそうです。
なんだか今の日本人の英語とそう変わりませんね。
以上、日本の英語に大きな影響を与えたラナルド・マクドナルドの話でした。
ラナルド・マクドナルド関連書籍
日本に憧れ、ボートで利尻島に上陸した一人のアメリカ人の体験を通して、開国に向けての意外な史実が描かれた、傑作歴史長篇小説↓
ラナルド・マクドナルド 鎖国下の日本に密入国し、日本で最初の英語教師となったアメリカ人の物語↓